Aさんは、20代のとき「重症筋無力症(じゅうしょうきんむりょくしょう)」という、身体に力が入れられなくなる難病を患(わずらい)い「一生、治らない」と医師から告げられました。不安のなかにいたAさんの心を救ったのは、幸福の科学の教えでした。希望を失わず、病と向き合い続けたAさんに、ある日、奇跡が臨みました―。
A・Yさん(65歳・広島県)
「The・伝道」234号
より転載・編集
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Aさんは、20代のとき「重症筋無力症(じゅうしょうきんむりょくしょう)」という、身体に力が入れられなくなる難病を患(わずらい)い「一生、治らない」と医師から告げられました。不安のなかにいたAさんの心を救ったのは、幸福の科学の教えでした。希望を失わず、病と向き合い続けたAさんに、ある日、奇跡が臨みました―。
A・Yさん(65歳・広島県)
「The・伝道」234号
より転載・編集
1954年、私は、建設会社を営む両親のもと、3人姉妹の真ん中の子として、広島市で生まれました。神様や仏様を大切にする信仰心篤い家庭に育ったので、私も、自然と目に見えない存在を信じるようになりました。
中学生ごろから、当時流行(はや)っていた旅番組の影響で海外にあこがれるようになり、「留学したい」という夢を描いていました。しかし、家族の賛同を得られず、留学を断念したのです。就職した後も海外への夢は諦(あきら)めきれなかったものの、仕事は楽しく、充実した毎日を送っていました。そんな23歳のある日のことです。
会社で会議に参加していたときに、身体の異変に気がつきました。自分の意志とは関係なく、両目のまぶたがどんどん下がってきます。
(まぶたが重たい。眠くないのに…)
以来、腕が上がらなくなったり、物が二重に見えたり、様々な身体の不調が現れてきました。その度に、眼科や整形外科など、あらゆる病院を受診しましたが、どの医師も「何も異常ないですよ」と言うばかり。原因不明の体調不良に悩まされるようになりました。
その後も体調不良は続きましたが、当時は日常生活に支障(ししょう)はなかったため、なんとか働くことができました。知人の紹介で知り合ったHさんと結婚し、娘にも恵まれて幸せな毎日でした。ところが出産をきっかけに病状は悪化し、身体に力が入らなくなっていったのです。「これは明らかにおかしい」と心配してくれた産婦人科の看護師の勧めで、大学病院で精密検査を受けることになりました。
「Aさん、あなたは『重症筋無力症』です。今の医学では、治すことができない難病です」
(一体、何の病気なの?)
医師の説明では、脳からの指令が筋肉に伝わりにくくなることで起きる病気ということでしたが、そもそもなぜこの病気が生じるのかは不明で、薬を飲んで症状を緩和させることしかできないのだと言われました。
まさか「難病」だとは、思っていなかったのでとても驚きましたが、今まで何度病院に行っても分からなかった病名が判明したことで、内心、ほっとしている自分もいました。
しかし、厳しい現実が私を待ち受けていたのです。だんだんろれつが回らなくなっていき、食べ物を噛(か)む力も弱まりました。また、手に力が入らないので食器をよく落としては割ってしまいます。特に心苦しかったのは、愛しいわが子を抱く力が出ないことでした。幸い、主人がその頃、自宅で不動産鑑定事務所を開いたので、いつも側(そば)にいて仕事の合間に子育てを手伝ってくれました。
そして発病から10年近く経っていた32歳のこと。胸腺(きょうせん)を摘出(てきしゅつ)する手術を行うことになりました。私の病気は、胸骨(きょうこつ)の裏にある胸腺に何らかの異常があると発病すると考えられていました。そこを摘出すれば病気の症状が改善するのだと、医師から説明を受けたのです。
(手術をすれば、普通の生活ができる!)
病気が治るかもしれないという希望を抱いて、手術に臨みました。手術は無事に成功し、その後、約二カ月間入院して身体の回復を待ちました。ところが、しばらく経っても、病状は期待していたようには変わらないのです。
(治ると思っていたのに…)
私はがっくりと肩を落としたのでした。
退院して自宅に戻ってきたある日。当時、自分の力では家事や育児を行うことは難しかったため、お手伝いさんを雇っていました。その方(かた)が1冊の書籍を手渡してくれたのです。
「Aさん、良かったらこれを読んでみてください」
幸福の科学の大川隆法総裁による『卑弥呼の霊言』でした。主人にも見せると、「これはすごい!」と感動してすぐに、書店で大川総裁の著作を他にもたくさん買ってきてくれました。そして、そのなかの『太陽の法』 を読んだときのことです。
「病は、人生における試練のときだといえます。この試練といかに闘うかによって、その人の人間性が試されるのです」
『太陽の法』には、病のときの心がけだけでなく、人間は何度も生まれ変わりながら魂を磨(みが)いていること、生まれる前に天上界(てんじょうかい)というところで人生の目的と使命を決めてくることなど、真実の人生観が書かれていたのです。
(私にとって、病は今回の人生で向き合うテーマなのかもしれない。病気を言い訳にしないで、いつも前向きでいよう。きらめく人生を生きていきたい―)
病気は単なる不幸なのではなく、心を磨く機会だと捉(とら)える教えに感動し、私は主人と一緒に幸福の科学で学ぶことにしました。
呼吸困難になって救急車で運ばれるような日もありましたが、信仰をもつようになってから、私の心の方は強くなっていきました。神仏がいつもそばで見守ってくれていると思うと心穏やかでいられましたし、仏法真理(ぶっぽうしんり)の書籍を読み、神仏に祈る時間は、何にも代えがたい幸せなひとときになりました
重症筋無力症は、季節や時間帯によっても波がある病気のため、調子の良いときは、薬を飲めばなんとか生活することができました。
親子で英語を勉強するスクールに通うようになり、語学を学ぶうちに青春時代に抱いた海外への思いが、私のなかで再燃してきたことを感じました。思い切って広島市の国際ボランティアスタッフに登録し、可能な範囲でホームステイを受け入れたり、週に1、2時間ほど国際交流センターで海外から来た方に日本語を教える活動に参加するようにしたのです。日本語や日本文化を海外の方にお伝えすると、とても喜んでくれ、教える側の私の方が「やって良かったな」と幸せな気持ちになりました。
そうやって日々を過ごすうち、私と病気との付き合いも長くなりました。その間に医学も進歩し、重症筋無力症の患者のなかには治るケースも出てくるようになったと知りました。希望を抱いて主治医に「私の病気も治りますか」と聞いたことがありますが、「Aさんの場合、発病から時間が経っているので、症状が変わることはないです」と言われてしまい、ショックを受けた日もあります。
(私の病気は一生良くならないかもしれない。でも、病気を抱えながらも努力して人生を拓くことはできるはず)
子どもが手を離れてからは、いつか海外でも日本語を教えることを夢見て、通信教育で日本語教育の勉強をはじめたのです。そして、50歳で日本語教師の資格を取りました。
2009年の初夏、転機が訪れました。主人の勧めで、55歳の誕生日に栃木県にある、幸福の科学の四つの総本山(そうほんざん)を巡礼(じゅんれい)しながら、これまでの人生を振り返ることにしたのです。宿泊の荷物を持つ力がないため、おばあちゃんのようにキャリーバックをひきながら、参拝をしました。
(たくさんの人にお世話になってきた…)
主人や娘、幸福の科学の仲間たち、国際ボランティアで知り合った方々、病院の先生―。病で思うように身体が動かせない私を支えてくれた、多くの方の顔が浮かびます。そして、身体が苦しかった夜を思い出し、目では見ることができないけれど、神仏がそばで見守ってくれていたことを改めて感謝しました。
(今まで、迷惑ばかりかけてきてごめんなさい。私も恩返しをしていきます)
人生を前後際断(ぜんごさいだん)し、生まれ変わったつもりで、自分の日本語教室を本格的に始動させていくことを決意しました。
晴れやかな気持ちで栃木県を後にし、その足で幸福の科学の研修・礼拝施設の千葉正心館(しょうしんかん)に立ち寄りました。これから日本語教師として多くの人の役に立てるように、『病気根絶祈願』(※)を受けて健康を祈ろうと思ったのです。
祈願室に入り、合掌(がっしょう)をして心を鎮(しず)めます。そして祈願が始まったとき、神秘的な体験が私に臨(のぞ)みました。天井のさらに上の方から、キラキラした温かい光が部屋いっぱいに降り注いできて、その光が渦を巻くように私をかこみ、そしてぎゅっと抱きしめてくれたのです。驚きと感謝で言葉にならない幸福感に満たされました。
自分のこの身体も、人生も、すべて神様から与えられたものだということ、いつも神様は見守って下さっているという実感が不思議とわいてきます。
(命をいただき、ありがとうございます…)
涙が溢(あふ)れて、止まりませんでした。
祈願を終え、千葉から広島に帰ってきました。それから1カ月が経とうとしていたある日のことです。
「Aさん、元気になったわよね。お皿が簡単に持てるようになったのね」
自宅に招いた友人に、お茶を出そうとしたとき、ふいに言われた言葉にはっとしました。確かに、以前はカップをよく落としては割っていましたが、その日はお盆に食器をたくさん乗せて軽々と持ち歩いていました。また、大きな荷物を運んだり、家の鍵を片手で開けたり、今までできなかったことが自然にできるようになっていたことに気がついたのです。
(奇跡をいただいたんだわ)
後日、感謝のお祈りをしようと、自宅の御本尊に向かって座り、経文を手に取ったとき、さらなる感動がこみあげてきました。
(え、経文が持てる…)
それまでは、テーブルに肘(ひじ)をつかなければ経文を持ってお祈りすることすらできませんでした。でもこのときから、そうしなくても自分の力で経文を持って祈ることができるようになったのです。
その後、私は日に日に体調が良くなり、体力もつきました。おかげで、日本語教室に積極的に生徒さんを呼び、レッスンを行ったり、ネパールなど海外にまで足を運んで国際交流ボランティアを行ったりすることができるようになったのです。医師の指示で、薬は今でも服用していますが、飲み忘れてしまっても夕方まで気づかないくらいです。
2年前からは、幸福の科学の「シニア・プラン21」で、生涯反省を行う講師ボランティアにも参加させていただくようになり、ますます元気で充実した毎日を送っています。
※:神仏への信仰のもと、病気の原因である間違った心のあり方を反省し、新生を誓う祈願。
今、病気で苦しんでいる方は数多くいらっしゃると思います。なかには、もう治らないと分かっている方や余命宣告をされている方もいると思います。そのお気持ちを考えると「辛いですよね、分かりますよ」なんて、簡単に言えません。でも、「病気が治る・治らない」に関わらず、どんなときも「神仏はあなたを見守ってくださっている」ということはお伝えしたいのです。
私は病気で大変だったとき、大川総裁の教えにはげまされ、人生観ががらりと変わりました。
幸福の科学では、生まれる前に「人生でどのような経験をして、そこから何をつかみ取るか」を自分で決めてくると学んでいます。
私はもしかしたら、今回の人生では、難病という"治らないはずの病気"を経験することで、「そんな病のなかでも明るく生き続けることができるか」や「目に見えない力を信じて感謝することができるか」を学ぶ計画を立ててきたのかもしれません。
自分の手でお茶碗(ちゃわん)が持てること、ごはんがおいしく食べられること、そんな些細(ささい)な日常が実は「当たり前」ではないのだと、私は病気を通して気づきました。「当たり前」のことなんて一つもないこの世界は、すべてが奇跡なのだと思います。
もし、今日人生が終わってしまっても後悔がないように、毎日感謝をして、生き切る気持ちが大切だと思っています。私はこれからの人生、自分のためではなく、人と世の中のためにこの命を使っていきたいです。
幸福の科学の教えでは、難病の原因は「人生の問題集としての過去世のカルマ」「悪霊の憑依」などの霊的背景があることや、また「祈願」によって悪霊が取れたり、「自己反省」が進むことによって病気が治ることがあると説かれています。Aさんも病と向き合うなかで、祈願を重ねていました。Aさんの治療履歴書類を、ご本人の許可を得て、改めて難病指定医に分析してもらったところ、次のような見解が得られました。
「症状の劇的改善があった2009年に、 重症筋無力症の治療でよく行われるステロイドなどの投薬治療や、胸腺摘出手術などは行われていません。したがって、Aさんの病状の劇的改善は医学的に説明がつかないですね。また、注目すべきは、自覚症状の改善後、数年かけて、病状の程度を表す各種の数値が正常値には届かないものの、かなり改善してきているという点です」。
大川総裁は、「心が変化すると徐々に肉体にも変化があらわれる」と説いています。Aさんも、祈願によって霊的な影響を受け、心境が良くなったために、数年をかけて肉体にも変化があらわれたと考えられるのではないでしょうか。 (「ザ・伝道」編集部)
難病を患いながらも海外支援に情熱を燃やす女性、最近まで現役で働き続けた96歳の女性など、個性豊かな4人のシニアたちが価値観の異なる「今の若者」を知るため、様々な場所を訪れ話を聞いていく。その様子を2人の若手女優が取材。世代を超えた心の葛藤と交流を映した感動のドキュメンタリー―。