元・反基地活動家の告白
かつて、悲惨な戦いを経験した沖縄で、「平和」を掲げて反基地活動に熱心に取り組んだKさん。しかしその胸中は、米軍や本土への恨みや怒りに満ち、「平和」とは正反対の状態だったと振り返ります。そんなKさんが、心の安らぎを取り戻した歩みを紹介します。
(K.Kさん/沖縄県/男性/
「ザ・伝道」第215号
より転載・編集)
本当の平和を目指して
身近にあった「戦争」
私は、自分が生まれ育った地・沖縄が、大好きです。二度とこの地を、戦争の舞台にはしない。そう思って、かつては反基地活動に身を投じた時期があります。そこで経験した、自分のつたない歩みを、反省も込めて告白したいと思います。
私が生まれたのは、「あの戦争」から10年以上が経ったころ。生活は復興し、落ち着きを取り戻してはいましたが、戦争の傷跡は生々しく残っていました。少し歩けば、民家の塀に沖縄戦の銃弾痕があったり、サトウキビ畑には戦争で亡くなった人の遺骨がまだ転がっていて、祖母から「不用意に近づかないように」と言われていました。私を含む沖縄の人間にとって、「戦争」とは常に身近なものだったのです。今も覚えているのは、小学4年生のとき母から告げられた一言です。
「うちの父ちゃんには昔、首ちりどぅし(無二の親友)がおった。いつも肩組んで歩いて、四六時中一緒で、寝るときも一緒だったのが、沖縄戦で徴兵されて、二度と戻って来なかったさー」
普段は朗らかな父に、そんな過去があったとは――。
(大事なものは、いつか突然、ぱっと奪われるんだ)
父の横顔を思い出すたび、幼な心にそんな思いを抱くようになっていきました。
反基地活動家への歩み
中学校に上がった1972年。アメリカに占領されていた沖縄が、日本に復帰しました。5月15日の本土復帰日には、県民の誰もが湧き立ちましたが、その興奮が薄れていくと、次第に、聞いたこともないような話が、頻繁に聞かれるようになっていったのです。「沖縄戦の終盤では、日本軍の兵士は、自分の身を守るために、防空壕に避難していた民間人を追い出した」「米軍に追いつめられると、日本軍は民間人に『アメリカのスパイ』という疑いをかけて処刑した」――。それらは、大学在学中に安保闘争を戦ってきたという新人の担任教師から聞いた歴史の「真相」でした。また、ときはベトナム戦争の真っ最中。本土復帰後も沖縄に残っていた米軍基地からは、軍用機が一日何十回も飛び立っていきました。
「あれは、遠く離れたベトナムに行って、そこの人たちの上に爆弾を落としてるんだよ。人殺しの兵器が、今も近くにいるんだよ。君はこれでいいと思うのかい?」
その話に、無二の親友を戦争で亡くした父の寂しそうな横顔が、何とはなしに重なります。
(父ちゃんのような人を、これ以上つくったらいかん。軍人はけしからん、アメリカはけしからん。それを放置して、けしからんものを沖縄だけに押しつけてる本土もけしからん)
自然と、そう思うようになっていったのです。そこで、北陸の大学を卒業した後は、建築士として雇ってくれる職場を探す際に、著名な反戦平和運動家でもある建築家の事務所に自ら売り込みをかけ、その人を師匠として働くことにしたのです。25歳のときでした。
つかの間の充足感
「沖縄を搾取しながら、本土は富を持ち帰っていく。そして、その富は、米軍に流れていく。この搾取・被搾取の体制を、どんなことをしても打破しないといけない」
そんな師匠の話を聞くと、(俺も頑張って、国や米軍を倒そう)と、本土や米軍に対して敵対心が湧いてきました。入所以降、私は建築士としての修業と並行し、反戦平和運動にものめり込んでいったのです。八重山空港建設反対運動への参加、米軍基地の土地借用更新に反対する「一坪反戦地主」への加入、県知事選で立候補した革新系候補の応援。熱に浮かされたように、次から次へとさまざまな運動を「転戦」しました。
そして、87年には、反戦・平和への意思を示すため、「人間の鎖」をつくり、嘉手納(かでな)基地を取り囲むことを計画しました。当日は、土砂降りだったにも関わらず、本土から平和を志す多くの同志が合流し、嘉手納基地を2万人の輪で包囲しました。
「こうやってつながりを広げて、強くしていけば、いつか戦争もなくなるんじゃないか」
仲間と手をつなぎながら、そんな会話をしていました。当時の私の心のなかは、充実感や満足感で一杯だった気がします。
「俺たちは、もらってない」
しかし我々の運動は、その後、徐々に頭打ちになっていきました。「人間の鎖」以降、いくら呼びかけても、特定の思想を持たないいわゆる「ノンポリ」の人たちの間では、一向に支持が広がっていきません。
(人殺しの基地がそこにあるのに、何でみんな参加しないんだ! 戦争がそんなに好きなんか!?)
そんな苛立ちは、次第に怒りにも似た気持ちに変わり、共感を持ってほしいはずの沖縄県民へと向かいました。しかし一方では、「ノンポリ」の彼らの方が、固定観念を持たずに米軍や豊かな本土と良好な関係を築き、平和運動を行っている人より発展しているように感じられます。思っていたのと、正反対の世界。それが、私の神経をさらに逆なでします。
「わったやー、いーてーねん(俺たちは、もらってない)!」。そんな横断幕を掲げて、那覇市内を練り歩いたこともありました。しかし、熱を入れれば入れるほど、周囲の人たちは「引いて」いきます。また頻繁に、同じような夢を続けて見ていたのもこのころでした。それは、「沖縄戦の最中に兵士となった自分が、武器も持たず、『死にたくない!!』と絶叫し、米軍から逃げ回っている」というものでした。その内容は妙にリアルで、朝起きるといつも寝汗で寝具はびしょびしょになっていて、夢の後は常にクタクタでした。しかし、いくら考えても別に答えがあるわけでもありません。
(いいことをしているはずなのに、何でこんなつらい思いをしなきゃいかんのか。米軍が、本土が、もうちょっとマシなら、こんな思いをしなくて済むのに。神様がいるんなら、俺を何とかしてくれんもんか)
そんな思いを抱えながら、運動に明け暮れていったのです。
好戦と非戦の間で
転機は、1988年に訪れました。同僚から、『空海の霊言』(※)という幸福の科学の本を渡されたのです。当時、建築の世界では、空海の生きた平安時代の風水思想を採り入れた建築様式がブームになっていたので、軽い気持ちでページをめくってみました。すると――。
「軍国主義、好戦主義の人と、それをつぶそうとして、反戦運動をする人との争いは、結局は同じ次元の争いである」
「好戦も非戦も、結局は自分の肉体生命を守らんとする気持ちであります。本来、人間の魂は神から分かれてきているのであります。そうであるならば、なぜ彼が敵となろうか」
これまで敵と思っていた軍国主義者たちと自分たちが、一緒――? 衝撃でした。戦争と平和の問題を、「神」や「魂」という視点から論じるという考え方も、初めてでした。
(この本を書いた
大川隆法
というのは、どんな人なんだろう? 本土にも立派な人がおるもんだ)
興味がわいて勉強をしようと思い、翌年に信者となりました。私は、平和運動と並行しながら、大川総裁の教えを学んでいったのです。
※空海の霊言:現在は『大川隆法霊言全集』第3巻(全国の精舎・支部で頒布)に収録。
「騙されていたのか!?」
自分の持っていた「平和運動」に対するイメージが変わっていったのも、このころでした。発端は、私の師匠が、建築界で権威ある賞を取ったときのことです。
「先生、こんな大きな賞をもらったんだから、そろそろウチナー(沖縄)の基地のことだけじゃなく、日本全体のことも考えてみませんか? 我々がどれだけ本土に盾つくようなことをしても、本土はこうして受け入れてくれた訳ですから」
それに対して、師匠から返って来た言葉は、「黙れ! 沖縄を壊していくのは、いつもヤマトンチュー(本土の人間)だ!」。
(自分がついてきたのは、ここまで子供じみた人だったっけ……)
それまで、「沖縄を守る気骨のある人」と思っていた師匠の頑なな言動に、少しどころではない幻滅を感じたのです。さらに、94年に参加した幸福の科学の講演会では、大川総裁は宗教家という立場を超え、平和のために北朝鮮の核の脅威を警告していました。地元に帰りその話題を活動家の友人に話すと、誰もが顔を背けます。
(我々は、純粋に平和を願ってるんだから、米軍や本土だけじゃなく、北朝鮮にも言うことがあるなら言わないとフェアじゃない。なのに、何で本土や米軍はダメで、北朝鮮には口をつぐむんだ?)
長年、「平和」を掲げて一緒に戦ってきた仲間たちとの間に、埋め難い溝を感じるようになりました。自分は、純粋に平和を目指してやって来たと思っていた。それが沖縄のためになると信じていた。しかしその活動が、もしかしたら実は、特定の誰かのために利用されていたとしたら?
(俺は、騙されていたのか!?)
そんな疑問は、もはや無視することはできなくなっていました。ついに95年、私は事務所から「独立」する形をとって、10年以上一緒に戦ってきた仲間と袂(たもと)を分かつことになったのです。
「やっぱり本土の人なんだ」
以降、私は幸福の科学の
支部
に日参し、大川総裁の教えを新たな心の支えにしようと、書籍を読みふけりました。そのなかの一冊『
人生の王道を語る
』という書籍では、ある一節に目が止まりました。
「恨み心で恨みは解けない」
(本当にその通りだ)、と思いましたし、そう考えると米軍や本土への強烈な思いが薄らいでいく部分は、確かにありました。ただ本音の部分では、受け入れられない部分が、どうしても残ったのです。
(そうは言っても沖縄は、ずっと本土から差別されてきたんだ。あの戦争では大勢の人が死んだし、現に今も米軍基地の大半が沖縄にあり、米兵の犯罪も沖縄が引き受けてる。それに対して本土は、何もしてくれてない。沖縄は、過去も今も傷ついてるんだ。それに目をつぶることなんて……。ウチナンチュー(沖縄の人)のことは、ウチナンチューにしか分からん。やっぱり大川先生も「本土の人」なんだな……)
私は次第に、大川総裁の説く霊的世界観や人生論は熱心に学ぶ一方、歴史論や政治への提言については、無意識に拒絶するようになっていったのです。信者になって10年が経っても、車に乗っている米兵や、本土からきた人たちの姿を見ると、心が穏やかではいられませんでした。
「一体何を憎んでいたんだろう」
そんな折、2005年に幸福の科学の研修・参拝施設である
沖縄正心館
が落慶されることになり、私も参拝をしに足を運びました。そこで、大川総裁の新しい法話が開示されると知り、その場で拝聴を希望しました。演題は、「沖縄正心館に寄せて」というものでした。
「沖縄では数十万の方が亡くなられて、非常に気の毒であるし、大変であっただろうなと思いますけれども、それはまったく無意味な死であったとは思えません」
「攻めてきたアメリカ軍の方はキリスト教ですので、キリスト教文明を背負っての戦いであったことは、間違いありません」
「お互いに正義を担ってはいたのだけれども、どちらがより多く、後々の人たちのために、文化・文明を開くために必要であったかという、そういう戦いでありました。敗れた側にも正義はあったのです」
敵や被害者もなく、米兵憎しも日本兵悪しもなく、ただ、とうとうと語られた、あの戦争の姿。昔の日本には、正義があった。攻めてきた米兵にも、背負うものがあった。互いが何かのために戦い、傷ついて倒れ、それを悲しむ人は、日本とアメリカ、双方にいた――。そう気づかされたとき、(俺は、一体何を憎んでいたんだろう)という思いがふと頭をよぎりました。その瞬間でした。
(許しましょう、許しましょう――)
そういう言葉が、胸のなかで響いたのです。私にとっては、それは、大川総裁からのメッセージのように感じられました。
(誰かを憎み、誰かに償ってもらうことで、初めて幸せの出発点に立てる。俺はもしかしたら、そう思っていたんじゃないか……。何かを「利用」していたのは、俺自身もだったんじゃないか……!)
そのころ自分の体内にあった冷たい塊のようなものが融けて、涙と一緒に流れ出て行った感覚がありました。そして、ちょうどそのころ読んでいた、大川総裁の詩篇「
心の指針
」のなかに、「憎しみを捨て、愛をとれ」という一節があったのを思い出していました。不思議と、その日を境に、信者になって以降も時折見ていた悪夢を、見なくなっていました。今から考えれば、自分にとっての反基地運動は、その日、本当の意味で終わった気がします。
真の平和運動を目指して
今テレビを点ければ、かつて一緒に運動をした仲間が、米軍基地や県庁の前に集まり、抗議活動をしているのを見ることがあります。みんな個人としては善良な人ばかりです。しかしその手には決まって「怒」と書かれたプラカードが掲げられています。また、その矛先は、相変わらず本土や米軍ばかりで、海の向こうから次の戦をもたらそうとして近づく中国や北朝鮮に対しては、誰も、何も声を上げません。心のなかは怒りに満たされながらも「平和」を叫ぶ。そしてその「平和」については、批判してはならない例外が常にある――。それでも活動を続ける彼らのつらさは、身をもって分かっているつもりです。
私の願いは、この沖縄を二度と戦場にしないことです。それはかつての仲間たちとも変わらないはずです。「過去の憎しみや恨み心では、平和は来ない。過去ではなく、現在と未来に目を向けよう」「現実に今、争いをもたらそうという意図を持つ勢力が海の向こうにある。そういう国々に対しては、例外なしに抗議し、平和を具体的に実現しないといけない」。今、私は、かつての仲間にそう伝え始めています。沖縄の過去には、確かに悲惨な出来事がありましたが、悲惨な経験があった沖縄だからこそ、後世や世界に伝えられることもあると思います。「心の平和から始まる世界の平和」「どんな国に対しても、正しいことは正しいと伝える」。それが、沖縄に生まれた私にとっての、「本当の平和運動」だと思っています。
「米軍基地の縮小」をするなら「中国や北朝鮮の自由化」の後にすべき
『国を守る宗教の力』 『現代の正義論』 (大川隆法 著/幸福の科学出版)より抜粋したメッセージ
中国や北朝鮮の脅威は見過せない
私は、「沖縄県を、沖縄の人たちに『日本に返還されてよかった』と言ってもらえるような県にしたい」と思っていますが、米軍基地の縮小は、あくまでも、中国や北朝鮮の現体制が崩壊し、自由化してはじめて可能になると考えています。今はまだ、彼らは領土を拡張しようとしているので、基地を縮小させては駄目です。それは、やはり、愚策であると言わざるをえません。
アメリカ憎しの気持ちは、あっても当然
「もちろん、米軍の駐留に関して、いろいろな意見があることは承知しています。また、先の沖縄戦では二十万人近くの人が亡くなっていますが、このなかには、米軍の艦砲射撃や機関銃による掃射、あるいは火炎放射器等で殺された人たちがたくさんいるわけです。もし身内として、そうした記憶のある人がいたら、それほど簡単に許せることではないでしょう。正直に本心から言えば、本当は許せることではないと思います。
「日米同盟」は日本全体の平和を守っている
しかし、現在、アメリカという国は日本の“友達”になってくれているわけです。過去、どのようなことがあったとしても、現在、友人関係が築けています。これは、とても大きな資産です。
いずれにしても、今、日米安保を堅持しておくことは、必ずしも、「日本がアメリカに従属している」ということを意味するわけではありません。これは、日本自体が、この国を護るために、今のところ必要不可欠な考え方なのです。
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