あなたの知らない地獄の話

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地獄とは

人は死ぬと、どうなるのでしょうか。

天国・地獄という「あの世」の世界は存在します。死後、天国に還る人もいれば、地獄で反省の日々をおくる人もいるのが現実です。

みなさんは悪夢のなかで、恐ろしい姿をしたものに襲われたり、命をとられそうになるなど、怖い思いをしたことがあるのではないでしょうか?
実は、地獄というものは、そうした悪夢の世界とまったく同じ世界と言えるのです。

この記事では、『地獄の方程式 』や『色情地獄論―草津の赤鬼の霊言―』 を参考に、地獄とはいったいどのような世界なのか、どのような考えを持ち続けたら地獄に行くのか、また、地獄に堕ちないためにはどうしたら良いのか、その一部をご紹介します。

目次


地獄にいる霊の特徴

地獄(地獄界)にいる住人たちは、もちろん、肉体はすでに死に、この世のものではありませんが、まだ地上への執着を非常に強く持っていて、どうしても魂として純化できないでいる人たちなのです。つまり、この世界の人々は、まだまだ霊として充分に目覚めていないと言ってよいでしょう。

現に地獄にいる人たちの話を聞いてみても、自分が死んだことすら知らない人が大部分です。
なかには、自分が死んだことを知っている人もいますが、「どのようにしたらよいのか。自分たちは、いま、どこにいるのか。何をなせばよいのか。何が違っていたのか」ということを分からないでいる人が大部分なのです。

"地獄に通じる心"をもっていないか

正しい供養 まちがった供養

地獄霊に共通する特徴として、最初に思い浮かぶのは、人を責める思いが極めて強いということです。
人を責める思いをさらに分解してみると、まず、恨みの念が強いということがあります。恨みに思う心、あるいは被害妄想的な感覚が極めて強いのです。つまり、「自分が今、幸福でないのは、他人に害されたからだ」という考え方です。(中略)
自分の心のなかを見たとき、奪う愛の側に立っていて、他人を責める気持ちが非常に強かったならば、地獄に行く可能性がかなり高いと思わなければなりません。自分が地獄に行くかどうかは、他人から指摘されるまでもなく、自分自身の心に問うてみれば分かることなのです。
人を責める思いが非常に強く、一日の間に去来する思いのなかで、そうした気持ちが占める時間がかなり長いようならば、その心は地獄に通じている可能性が高いのです。

(経典『正しい供養 まちがった供養』より)

こんな人は要注意!「地獄行き候補者リスト」

・「あの人がこんなことを言った」など、同じことをいつまでも言い続けてしまう人
・人の失敗を見るとほっとする人
・社会も、家族も、すべてが自分に対して不利に見える人
・思わず「死にたい」と言ってしまう人
・首や肩が凝る、背中や腰が重く感じる人
・きつい言葉や誰かを中傷する言葉が次から次に出てくる人
・人から傷つけられる自己イメージが強い人
・自分が今うまくいかないのは、過去にあった嫌な出来事のせいにしてしまう人
・食欲をコントロールできない人
・いつも欲しいものがたくさんあって我慢できない人
・カッとなると自分でも統制できない怒りで疲れる人
・努力しても報われない、不幸を引き寄せる人
・能力や才能は遺伝子や生まれで決まっていると思っている人
・がんばらずにお金がたくさん欲しいと思っている人
・自分はもう十分にがんばったから、もう努力しなくていいと思っている人
・気づくと異性のことを考えている人
・モテたい、ちやほやされていたい人
・死んだら何もなくなると信じている人

どのようにして地獄に行くのか

あの世は「心をそのまま取り出した」世界

人は死ぬと身体がなくなり、「魂」と呼ばれる霊体になります。魂はその人の「心そのもの」とも言えます。

あの世の世界は、自分の心に嘘のつけない世界です。その人の容貌も、その人を取り巻く環境も、その人の心の真実の姿を正確に反映してしまうのです。

天国に住む人たちの特徴を一言で言えば、天真爛漫で飾り気がなく、生地のままで美しい心を持っています。心のなかに、臭いもの、汚いもの、悪いものを詰め込んでいる人は、その臭気が立つがゆえに、天国で生活することはできません。
あなたの心をそのまま取り出したときに、それは天国にいる心でしょうか。

死後、どの世界へ行くかは、その人の心境や生前の行いによって決まります。どのように行き先が決まるのか、見てみましょう。

あの世では心のなかで思ったことまで、人生のすべてが上映される

人は死後、導きの霊に導かれて「あの世の入り口」に行きます。ここは、有名な三途の川があるあたりです。三途の川は、天国と地獄を分ける前の世界なのです。

三途の川を渡ったあとは、映画館のような場所で自分の人生を見せられます。客席には自分より先に亡くなった親しい人々や陪審員など、多くの霊人たちが並んでいます。その人たちが見ている前で、本人が忘れていることや、心のなかで思ったことまで、洗いざらいスクリーンで上映されるのです。

「自分はどんな人生を送ったのか。自分は何者であるのか」を徹底的に見せられ、その人生の評価によって、あの世での行き先が決定します。
多くの人に祝福されるような人生であれば天国に還りますが、少し「反省」が必要だと思われるような人生だった場合は、地獄に赴くことになります。

地獄とは、「犯罪者だけが行く」ような場所ではありません。その人の生き様と行ったこと、心のあり方が総合的に評価され、水より比重の重い物体が沈んでいくように、魂の比重が重い人が「堕ちて」いくのです。

つまり、人は死後、それぞれの心境にふさわしい世界に行くのです。

地獄界の構造

この地獄界(地獄世界)にも、その波動に応じた、さまざまな段階があります。上段階から下段階までがあるのです。

地獄界上層―阿修羅地獄や色情地獄、犯罪人たちの行く世界

たとえば、比較的上層の世界には、闘争や破壊を中心に生きた者たちが行く阿修羅地獄や、男女の道を誤った者たちが行く色情地獄(血の池地獄)などが存在しています。また、詐欺、殺人、傷害、強盗などを行った者たち、いわゆる犯罪人たちの行く世界がありますが、それも程度に応じて段階が違っています。

地獄界最下層(1)―無間地獄など宗教的、思想的罪を犯した人々の行く世界

地獄の最下層のほうには無間地獄があり、そこには、思想的に、あるいは宗教的に人々を間違わせ、狂わせた人々が行っています。霊の世界は、殺人などの肉体的な間違いや物質関係での間違いよりも、「人の心を狂わせる」という罪を最大の罪としています。そのような世界が最下層にあります。

地獄界最下層(2)―魔界、地獄の魔王たち、サタンたちが住んでいる世界

さらに、主として無間地獄を中心に発生した、魔界というものがあります。

これは、地獄の魔王たち、サタンたちが住んでいる世界です。「現代の世の中に魔王とかサタンとかがいるものか」と言う人もいるでしょうが、これは現実にいると言わざるをえないのです。これは地獄霊のなかで親分格の霊たちであり、地上で言えば、やくざの親分のような存在です。
現実には、どのような人がなっているかというと、間違った宗教家たち、あるいは、政治的リーダーでありながら人々を狂わせたような人たちです。

地上において非常に影響力があり、指導力があり、そういう意味において、念の力が非常に強かったような人たちが、間違った方向へ行き、その世界でボスをやっていることが多いのです。そして、千年以上もそこから出られないでいると、魔王となっていくわけです。

地獄に堕ちないための言葉

地獄は人々の暗い想念の曇りのため、霊太陽の光が射さない。薄墨色の空の浅い地獄から、漆黒の闇、コールタールを流したような暗闇の世界が、最深部を造っている。罪の重さによって、何層にも分かれている。

(経典『地獄に堕ちないための言葉』より)

地獄の種類

最近は地獄も近代化してきており、現代人が赴く地獄は現代的な姿をしています。
ここからは、様々な地獄を紹介していきます。あなたの心にも、いずれかの地獄の傾向性が潜んでいませんか?

■ 等活地獄(とうかつ・じごく)

等活地獄とは、地獄のいちばん浅いところにある、「殺生の罪」(命を奪う罪)によって行く地獄です。殺し合って体をバラバラにしたり、粉々にしたりする地獄です。
等活地獄に堕ちた人は、赤鬼や青鬼のような獄卒に追いかけられて、頭を鉄杖(てつじょう)や鉄棒で叩きつぶされたり、刀で体を斬られたりして、地獄のなかで「死ぬ」のですが、どこからともなく涼風がふーっと吹いてくると、死んだ人がみんな、ふわっと生き返ります。

「等活」とは文字どおり、「等しく活(生)きる」ということです。みんな等しく生き返って、また殺し合いが始まります。

等活地獄は、このようなことを永遠に繰り返しさせられる恐ろしい地獄です。これは、人を殺めたりすることがどれほどの罪かということを教えるために繰り返されます。

参考:『他力信仰について考える』 『悟りに到る道』

人を殺める罪を教えるために存在する等活地獄

悟りに到る道

このように「等しく生(活)き返る」ということから等活地獄と言うのですが、こういうことを永遠にくり返しております。これは、人を殺めたりすることがどれほどの罪かということを教えるために、魂がそれを徹底的に知るところまでやらされるのです。

(経典『悟りに到る道』より)

なぜ人を殺してはならないのか

愛を与えるということ

「人を殺すなかれ」という教えを追究していくと、結局のところ、「人間とは何であるのか。生命とは何であるのか。人生とは何であるのか」という、根本の部分に行きつかざるをえないのです。その根本の部分に、現象として現れた肉体を超えるものを認めるか否か、ここが大きな分かれ目です。

(経典『愛を与えるということ』より)

■ 自殺者が行く地獄

等活地獄によく似ているのが、自殺者が行く地獄です。自殺者のなかには、自分が死んだことも分からない人が大勢います。

ビルから飛び降り自殺をした人であれば、死んでからもビルの屋上に上っては、何回も何回も飛び降りをしています。「自分はぐちゃぐちゃになって死んだ」と思ったのに、しばらくすると生き返るため、また屋上から飛び降りるのです。

首吊り自殺をした人であれば、死んでからも、何度も何度も首を吊っています。それでも死ねないので、今度は地上に生きている人に取り憑いて、他人に首を吊らせるようなことをします。自殺者が行く地獄では、何度も何度も、死ぬ瞬間を繰り返し体験します。

参考:『他力信仰について考える』

地上でさまよい続ける自殺者もいる

大悟の法

答えは、「百パーセント、地獄へ行く」ということはなく、「地獄、もしくは地獄以前の段階にいることが多い」ということです。なかには地獄まで行っている人もいますが、地獄以前の段階で、自分が死んだことが分からずに、地上に執着して、地上の人と同じように生活している人や、あるいは、地縛霊となって、自分が死んだ場所などに漂っている人が、数多くいるのです。

(経典『大悟の法』より)

自殺者のなかには、この世の人や物に引っかかっていて、地獄に堕ちることができない人たちも数多く存在します。

この世からの逃避として自殺するような場合や、霊的世界について知らずに死んでしまった場合は、天国に還ることは非常に難しいです。また、そのような人たちは、天使が説得に行っても受け入れられないこともあります。

この世において、他の人の説得を受け入れなかった人は、あの世においても、やはり受け入れることは難しいのです。

参考:『大悟の法

■ 無頼漢地獄(ぶらいかん・じごく)

無頼漢地獄はまだ浅い地獄で、日没後のような薄暗い世界です。無頼漢という字のごとく、やさぐれ者たちがいます。アル中、人間として無軌道な生活や破綻状態の生活をするような人など、家庭を省みない人たちです。

この地獄は、いつ自分の生命が奪われるかが分からないという肉体的なことに関する恐怖心が支配しています。
「他人はみんな自分を害そうと思っている」「自分は死ぬんじゃないか。迫害されるんじゃないか」という恐怖心を持っていた人は、この世界で、怒りに燃えた人に殺される恐怖体験を繰り返します。

無頼漢地獄の特徴は、「殺されても、死ねない」ということです。ほかの地獄でもそうですが、実際に肉体があるわけではないので、死ねないのです。

ところが、本人たちはまだ肉体があるように思っています。切り刻まれると、いちおう痛みがあったり、殺される感覚があり、「死んだかな」と思うのですが、しばらくするとまたもとに戻ってきます。

無頼漢地獄は、死ぬ前から死ぬ時までの恐怖心が繰り返し繰り返し出てくる地獄です。この「恐怖心」は、地獄の一つの要素でもあります。

参考:『大川隆法霊言全集』第26巻(非売品)

■ 餓鬼地獄(がき・じごく)(餓鬼道)

現代人が非常に行きやすい地獄の一つに、「餓鬼地獄」があります。骸骨のように手や足、顔が痩せ細り、おなかだけがポコッと出ている姿の人が大勢いるところです。

この地獄の人たちは、とにかく欲しくて欲しくてしかたがない気持ちでいっぱいです。
「何かを自分に与えてほしい」という気持ちの表れで食べ物を欲しがりますが、いつまでも満たされることはありません。「他人からもらいたい」「人のものをパッと取っていきたい。奪いたい」という気持ちの強かった人は、死後、このようになります。

おなかを空かせて岩山を這い上がり、やっと見つけたおいしそうな食べ物をいざ口に入れようとした瞬間に、ガスになってボッと燃え上がってしまったり、喉の渇きを我慢しながら砂漠を這い回り、やっとオアシスにたどり着いて水をガバガバッと飲もうとすると、その水が蒸発してなくなってしまったりします。

さらに、もっと気性が荒くなってくると、同じ餓鬼地獄に堕ちた他の地獄霊を食べてしまう人もいます。しかし、あの世では、実際には肉体はないので、「食べた」と思った相手がまたポコッと現れてきます。逃げられたと思って、もう一回、食べにかかっても同じで、いつまでたってもおなかは満腹になりません。

「甘い汁を吸えるような話があったら、ガボッと噛みついて、自分のものにする」というような気持ちがあるかどうか。いつも満たされない気持ちで心が占められていないかどうか。そのような思いでいるならば、死後、餓鬼地獄に行くことになります。

また、最近の餓鬼地獄には、子供たちがサンドイッチやハンバーガーなどの食べ物、あるいはおもちゃや遊び道具を持っていて、それを大きな大人が取り上げるという形もあります。

食べ物などは一つの象徴であり、「手に入れたいという欲望がある」ということ、そして、「それが手に入らない」ということを表しています。

参考:『発展思考』

■ 色情地獄(しきじょう・じごく)(血の池地獄)

阿修羅地獄の近くにある「色情地獄」は、男女関係において著しく間違った生き方をした人が行くところです。

ここは有名な「血の池地獄」でもあり、男女の絡みを"永遠"に行っているのですが、その姿は非常に見苦しく、ぬかるんだ田んぼの泥沼のなかで、ミミズがたくさんかたまって戯れている姿に似ています。そこを「最高の世界だ」と思って生きている人たちが大勢いるのです。

浮気、不倫、三角関係や不特定多数との肉体関係などの複雑な関係をつくると、お互いに嫉妬心にあおられて心は地獄になります。

ここも現代人が行きやすい地獄の一つで、男女の関係で道を踏み外す傾向が非常に強かった人が赴く世界です。

参考:『発展思考

人生に渡って異性との葛藤を持つ危険性

信仰告白の時代

青少年であれば、まず情欲というものが頭をもたげてきます。異性のことが頭から離れず、だんだん、眼の楽しみ、耳の楽しみ、それから肉体感覚の楽しみのなかにのめり込んでいって、魂の純粋さを失っていくようになります。
そして、「人間はこの世かぎりの存在であり、この世を享楽的に生きればいいんだ」という浅薄な人生観が、早い人だと十代の半ばぐらいから始まり、転げ落ちていくように、そうした人生観にどんどんと染まっていきます。(中略)
それも、一時期の間違いですめば、それほど問題はないのですが、それが人生の習い性になってしまい、学生期を終わり社会人となっても、異性との葛藤のなかに人生を渡っていくようになると、来世で行くところは恐ろしい世界です。

(経典『信仰告白の時代』より)

地獄に堕ちないための言葉

血の池地獄は今も存在する。動物的本能が勝って、自制心や、本物の愛が敗れた場合に往くのだ。

血の池地獄に往かぬためには、『白骨観(はっこつかん)』をするとよい。相手が白骨となっても、あなたはその魂を愛せるか。

(経典『地獄に堕ちないための言葉』より)

■ 阿修羅地獄(あしゅら・じごく)(阿修羅道、阿修羅界)

阿修羅地獄は、人を責めさいなんだり、人の悪口ばかりを言っていた人が行く地獄です。

自分が不満であるために、「とにかく悪口を言ったり、人を傷つけたりするとスッキリする」という気持ちで、悪口のための悪口を言い続けているタイプの人、また、世間の悪口、政府の悪口、人の悪口を並べたて、不幸を自分以外のもののせいにして自らを正当化するような人や、言葉で人をずいぶん傷つけているようなマスコミやジャーナリズムの人たちもこの阿修羅地獄に行きます。

この地獄には、昔の兵士や、過去の戦争などで殺し合った人たちもたくさんいます。ただ、現代では戦争が少なくなってきていることもありお互いに非難合戦をしています。

やがて、あの世で弓矢の使い方を覚え、お互いに殺し合うようになったりしますが、ここでも、殺しても殺しても相手が死なないため、"永遠"に相手を傷つけることを繰り返します。これを、ほとほと嫌気がさすまで続けるのです。

さらに、この地獄の現代的な変形として病院が出てくることもあります。

昔は、鬼が出てきて、地獄の釜でグツグツ煮たり、鉄棒で叩き潰したり、釘を打ち込んだりすることが多かったのですが、現代では地獄も少し変わってきていて、阿修羅界のなかに病院のようなところがあるのです。そこに運び込まれて、集中治療室のようなところへ行くと、医者や看護師が出てきます。
医者はマスクをかけていますが、口が耳まで裂けています。患者は、「やめてくれ」と言って暴れますが、ベッドに縛りつけられ、解剖され、殺されてしまいます。

阿修羅地獄では、残忍な殺され方を繰り返し何度も体験するようになります。なぜなら、その人の心の映像において、恐怖体験のみが展開しているからです。自分が恐れるものを引き寄せて、その映像ばかりを見るのです。

参考:『発展思考』 『復活の法』

阿修羅地獄へ行かないためには

宗教選択の時代

人間は、切磋琢磨をしてお互いを磨いている時には、その心は天国の心なのです。しかし、お互いを磨くという心を忘れて、傷つけ合うほうに行った場合には、この修羅の世界に行ってしまいます。
その際に、この修羅、阿修羅の心を持っている人の特徴は、「正聴」と「正語」ができないということです。
正聴とは、人の言葉を正しく聴くことです。(中略)
正聴あって、また正語もあります。正しく語るには、語る前に心の調律が大事です。そして、心の調律のもとになるのは、正しく聴くということです。正しく聴いてこそ、正しく語れるのです。(中略)
ですから、阿修羅界に行く可能性のある生き方をしてきた方、すぐカッと怒って心がよく乱れてきた方は、正聴と正語をきっちりと修練していただきたいと思います。

(経典『宗教選択の時代』より)

■ 火焔地獄(かえん・じごく)

阿修羅地獄で止まらず、「火焔地獄」というところまで堕ちて、毎日、炎に焼かれて、阿鼻叫喚の生活を送る人々もいます。

煩悩に身を焦がした人や、怒りの炎や嫉妬の炎で、人を焼き焦がした人が行く地獄です。

短気で、すぐにカッとくる人―何かを聞くと、すぐにカッときて、逆上し、見境がつかなくなる。そして、あとで我に返ったら、いったい自分は何をしていたのか、何のために怒っていたのかがわからない―このような人が大勢います。

「自分は短気だからだ」と説明をつけているかもしれませんが、それは必ず反作用を受けるのです。怒りの炎が、その心が、他の人を傷つけ、また、自分自身の仏の子としての本質をも傷つけているのです。

参考:『宗教選択の時代』

教養を身に着けることで短気をなおす

幸福へのヒント

教養のある人は短気ではありません。「自分は短気だけれども、教養はある」と思っている人もいるでしょうが、ほんとうに教養のある人は短気ではないのです。
教養のある人が、なぜ短気になれないかというと、自分と相手とのあいだに教養の差があるときには、言い争いができないものだからです。
たとえば、学校の先生は、本気になって生徒とけんかをする気にはならないでしょう。
それと同じように、教養のある人は、自分より教養のない人に対して、厳しくは言えません。相手が分かっていないということがよく分かるので、その人に対し、噛んで含めるようなかたちで話すことになるのです。
したがって、「もっと勉強をして、教養を積む」ということも、短気を直す方法の一つなのです。

(経典『幸福へのヒント』より)

■ 無間地獄(むけん・じごく)(孤独地獄、無意識界)

人の悪口を言う人たちのなかでも、極端に指導力のある人が行くのが「無間地獄」と言われる、非常に深い地獄です。独りきりになって、他の人と全然会わないようなところに隔離されるのです。

言論人や思想家、先生、教祖など、大きな力を持って人々に影響を与えているような人、思想的に、あるいは宗教的に人々を間違わせ、狂わせた人々は、阿修羅地獄では止まらず、もっと下に行きます。地下一階ではなく、地下二階、地下三階と、もっと深いところに行くのです。

霊の世界は、殺人などの肉体的な間違いや物質関係での間違いよりも、「人の心を狂わせる」という罪を最大の罪としています。なぜなら、こういう人は、あまりに危険すぎるからです。

人々を扇動し始めるようになると、周りへの悪影響が大きいので、そういう人は、もっと深い地獄にストーンと堕ちていくのです。それだけ魂の比重が重いとも言えます。

さらに、主として無間地獄を中心に発生した、魔界というものがあります。これは、地獄の魔王たち、サタンたちが住んでいる世界です。地獄霊のなかで親分格の霊たちであり、地上で言えば、やくざの親分のような存在です。

参考:『発展思考』 『幸福の科学とは何か』

優秀な人であっても、この世の行い次第では地獄に堕ちる

発展思考 〔改訂版〕

頭脳明晰かつ優秀な人であっても、その心の使い方を誤って権力欲や自我我欲のままに生き、容赦なく他人を引きずり下ろしたり、辛辣に他人を批評したり、いろいろな人を間違った道に導いたりした、政治的な指導者や学問的な指導者、経営者などは、「無間地獄」という深い地獄に堕ちています。

(経典『発展思考 〔改訂版〕』より)

■ 焦熱地獄、炎熱地獄(しょうねつ・じごく、えんねつ・じごく)

読んで字のごとく、この地獄では、大変な高熱で人々の肉体(と思われているもの)が焼けただれています。

火山の火口のようなところから硫黄の熱風が吹き上げ、とにかく熱くて熱くて、じりじりと焼き殺されるような地獄です。さらにすごい「大焦熱地獄」もあります。ゆらゆらと陽炎(かげろう)の立ち昇る砂漠を、腰に布一枚を巻いただけで、やせて骨ばかりのようになった男女が、水を求めてさまよっています。

この地獄を特色づけているものは、「渇望」という言葉です。人々に与えることを忘れて、「あれが欲しい」「これを手に入れたい」と、山のような欲望に振り回されて、求めることばかり考えて人生を送ってきた人々が行く世界です。
物欲が強く、常に不足と不満ばかりを心に思って生きてきた人々の心が、「熱風の吹き付ける灼熱の砂漠」という心的風景をつくり出しているのです。

焦熱地獄から救われるには、2つのことを実行しなければいけません。

一つは、「他人に対して愛の行為をする」ということです。もう一つは、「欲望に振り回されず、足ることを知った心で持って、日々を生きる」ということです。

参考:『大川隆法霊言全集』第26巻(非売品)

地獄に堕ちないための言葉

実在世界の法則は、与える者は与えられ、奪う者は奪われるということである。

(経典『地獄に堕ちないための言葉』より)

■ 畜生道(ちくしょう・どう)(畜生地獄)

ここにいる人たちは、もはや人間の姿をしていません。顔だけは人間で、体は、馬であったり、牛であったり、鳥であったり、蛇であったり、豚であったりと、さまざまです。

それぞれ自分の心性に合った動物の姿をしています。なかには、空を飛ぶコウモリのようになって、洞穴に逆さにぶら下がっている人もいます。猜疑心の強い人は蛇のような姿、欲望を抑えきれない人は犬のような姿、人を騙しつづけてきた人は狐のような姿になって、畜生地獄をつくっているのです。

ここにいるのは、「心のなかは外からは見えないから、どのような思いを持っていてもかまわない」と思って生きていた人々です。肉体を持っていたとき、その心が透き通しで、何もかも見通されてしまったならば、恥ずかしくて、とても人前には出られないような生き方をしていた人たちは、あの世の世界に還ると、心のなかをすべて見られてしまい、また、自分の心のままの姿になるということを知って、がく然とするのです。

そして、彼らの大部分は、何百年もこの地獄にいるうちに、自分をその動物そのものだと思い込んでしまいます。これが、実は、「動物霊の憑依」と言われている事実の真相なのです。

自分を蛇だと思い込んでいる地獄霊、自分を狐だと思い込んでいる地獄霊が、生きている人間に憑依しては、人間を苦しめているのです。霊能者が「現象」を行うときに、蛇のように身をくねらせる霊や、狐のまねをする霊が人間の言葉でしゃべったりするのは、それが、ほとんど、畜生地獄に堕ちた人間霊だからです。

参考:『永遠の法 』 『大川隆法霊言全集』第26巻(非売品)

自分を動物だと思い込み始める

発展思考 〔改訂版〕

例えば、かつて人間であった老婆が、大きな蛇の姿をとって、のたうち回り、そして、ときどき地上に出てきては、生きている人間の首や腰に抱きついて、その人を苦しめたりしています。その霊体は、もう人間ではありません。動物の姿に変わっているのです。(中略)
では、なぜ、そういう姿になったのかというと、生前、人間らしい心を見失って、動物のような生き方をしていたからです。欲望のままに生きるような生き方は、動物の生き方と変わりません。そのために、動物の姿をとって、反省の期間を迎えることになるわけです。

(経典『発展思考 〔改訂版〕』より)

地獄に堕ちないための言葉

「動物性が極めて強い」と判定されると、次は、「畜生道」・「動物界」という地獄に送られる。

「畜生道」では、体は動物と同じとなるが、時々、顔は、人間時代の顔にブレて見える。

(経典『地獄に堕ちないための言葉』より)

■ 黒縄地獄(こくじょう・じごく)

深いところにある地獄に、「黒縄地獄」というところがあります。

黒縄地獄は、「殺生」のほかに、もう一つ、「盗み」も加わった人が行く地獄です。「与えられていないものを取った」ということです。

ここでは、焼けた鉄板のようなところに寝かされて、焼けた鉄のような黒い縄で印をつけられ、四方に刻みをつけられ、そしてそのとおりに、焼けるなかで体を切られていきます。

最近は近代的になってきていて、外科医の病院の手術台のようなものが出てきはじめています。「外科医が出てきて、メスを持って執刀する」という、かたちは少し違っているとしても刃物で体を切られたり、切断されたりする地獄です。

そして、天井からもまた熱い鉄のロープのようなものがぶら下がり、熱風が吹くたびに体のいろいろなところに焼きつける、そのような地獄です。

参考:『悟りに至る道

地獄から抜け出せない人たち

無限の愛とは何か

地獄へ行った方ともずいぶん話をしましたけれども、ほんとうに反省ができないのです。「自分が悪い」と言えないのです。「あなたが悪いのでしょう」と言うと、反発するのです。猛烈に反発します。「そんなことはない。自分は悪くない」と、いくらでも言い訳をします。どうしても反省ができません。残念ですが、何十年かの人生を生きて、魂が「有」の状態、もう固まった状態になってしまい、その傾向性が変えられないのです。

(経典『無限の愛とは何か』より)

■ 阿鼻叫喚地獄、大阿鼻叫喚地獄(あびきょうかん・じごく、だいあびきょうかん・じごく)

さらに深いところにある地獄として、「阿鼻叫喚地獄」があります。阿鼻叫喚、つまり泣き叫ぶような非常に苦しい地獄です。この阿鼻叫喚にも程度があって、「阿鼻叫喚地獄」と「大阿鼻叫喚地獄」というところがあります。

大阿鼻叫喚地獄に堕ちる人で典型的なのは「五逆の罪」を犯した人です。「五逆」とは次の五つです。

一、父殺し。
二、母殺し。
三、阿羅漢以上の資格を持ったお坊さん、キリスト教的にはシスターや神父など、仏神に近いところをめざして修行している僧侶を殺すこと。
四、仏陀を傷つけること。
五、仏陀のつくった教団を混乱に陥れること
(これを犯した場合を「和合僧破壊の罪」と言います)。

この五つの罪のどれかを犯した者は、大阿鼻叫喚地獄に堕ちるのです。

これ以外にも、修行者でありながら盗みをしたり、修行者でありながら強盗や強姦のようなことをしたり、修行者でありながら、自分が悟っていないのに悟ったと称して人びとを惑わしたような者もここに入ります。

こうした非常に深い罪を犯した者が、大阿鼻叫喚地獄というところに入ります。ここに入った人は千年以上は絶対に出てこられません。
そこでは、ありとあらゆる地獄の苦しみがあります。そこに入った人というのは、生皮を剥がされ、その後、焼けた土の上に寝かされて、燃えるような、銅や鉄を熔かしたようなものを体の上にかけられているのです。

その後、金鋏(かなばさみ)のようなもので口を開けられ、そのなかに、またドロドロに熔けた銅のようなものを流し込まれ、それが肛門のほうから出てくるという、こんな恐ろしい苦しみを味わっている人もいます。

過去、宗教を迫害してめちゃめちゃにしたような人たちが、そのような罪のなかに置かれています。こういう地獄が、深いところにあるのです。

参考:『悟りに到る道』

大阿鼻叫喚地獄に堕ちると

「悟りに到る道」講義

大阿鼻叫喚地獄に堕ちると、千年以上はまず出てくることができません。そこは見たくもないほどのすごい地獄であって、溶岩がボコボコと湧いている火山の火口でリンチを受けているような状態です。他の地獄などと比べても、そうとうきつい地獄です。こんな所に千年もいたら、もう死にたいでしょう。
実際、そこに堕ちた人は「死んでしまいたい」と言っています。しかし、霊は死ねないので、どうしようもないのです。「自分の魂が消滅すれば、どれほど楽か」と思っても、消滅しないという苦しさがあります。

(経典『「悟りに到る道」講義』より)

なぜ地獄が存在するのか

なぜ神が地獄を存続させるのかと考える方もいるかもしれません。しかし、地獄というものは、ある意味では罰なのですが、別の意味においては病院とも言えるのです。地獄霊はまさしく病人と同じです。 

地獄にいる大多数の人たちは、生前神を信じず、霊を信じず、死後の世界のことを信じていなかった方々です。彼らは、地上を去っても自分の死を認識できないでいます。

もしあなたが病気になったときに、病人だからとすぐに抹殺されたら困るように、病気の人が健康になるまで、病院で立ち直る機会を与える必要があります。そして、病院というものをなくしても、病気の人がいなくなるわけではありません。

地獄の存在意義も、このようなところにあります。
地獄にいる人々が反省し、天国に還れるまで、神仏は長い間待っているのです。つまり、地獄というものは、単なる罰や責め苦として与えられているのではなく、神が与えた慈悲そのものとも言えるのです。

地獄とはどういうところなのか

人生の発見

「地獄をなくせばよい」という考えは、たとえば、「病人をなくせばよい」という考えと同じなのです。これは、爆弾を落として病院を粉砕すれば、病人がいなくなるかどうかということです。「病人は特別な生き物だから、地上に置いていてはいけない」と考えるかどうかということです。

(経典『人生の発見』より)

転生輪廻における基本ルール

地獄界から地上に生まれ変わってくることはできない

ここで、忘れてはならないポイントが一つあります。それは、「人間の魂は転生輪廻というかたちで地上に生まれ変わってくるが、地獄界からは決して生まれ変わってくることはない」という事実です。

これは、従来の宗教では、それほど強く唱えられたことがありませんし、このことを知っている人も少ないでしょう。しかし、地獄界から地上に生まれ変わってくることはできないのです。

地上の人間に憑依しようとする地獄霊

それができないからこそ、彼らは、憑依という現象を起こし、「地上の人間に取り憑いて苦しめる」ということをやっているわけです。

もし地獄界から地上に生まれ変わることができるのならば、彼らも人間の肉体に宿って生まれ変わり、地獄の苦しみから逃れ出ることができるのですが、それができないからこそ、地獄の責め苦から逃げたくて、「生きている人間に取り憑き、惑わす」というようなことが起きるのです。

いずれにしても、地獄にいる人たちは、仏の心に反した思いと行いを現実に出して生きていたわけであり、その点に関して、深い反省を要求されているのだと言えましょう。

地獄に堕ちないために今からできること

人は「死んだら終わり」ではない

いくつかの地獄をご紹介しました。改めて、あなたの心は天国と地獄、どちらに近いでしょうか?
実は、地獄にいる多くの人は、自分が地獄にいるとは思っていません。

現代は、死後の世界を信じていない人や、死んだらどうなるか知らない人がほとんどなので、「自分には意識があるから、まだ生きている。ちょっと変な場所に来てしまっただけだ」と、自分が死んでいることにすら気づいていないのです。

「魂が永遠にある」ということは、善い人にとっては永遠の幸福ですが、罪を犯した人にとっては大変な責め苦です。

この世で役に立つ知識はいろいろありますが、「死んでから」役に立つ知識を、あなたはどれだけ知っているでしょうか。地獄に堕ちないためには、神仏への信仰心と、正しい霊界知識が必要です。

こちらで紹介する書籍では、「もしも」死後の世界があったときに「知らなかった」では済まされない、驚きの事実が明かされています。
「目に見えない世界」の真実に目を向け、天国へ還れる心を目指してみませんか?

地獄に堕ちないための言葉

地獄に堕ちないためには、神仏への正しい信仰が必要である。唯物論、無神論、無霊魂論、科学万能主義では、天上界には還れない。

(経典『地獄に堕ちないための言葉』より)

死後、地獄に行かない方法

死後、天国に還れる生き方を

奇跡の法

地獄界は、光を拒絶した人たちが巣くっている場所です。暗い世界を好む人たちが、そこに生息しているのです。それは、どんなに強い太陽の光線が当たろうとも、洞窟のなか、洞穴のなかには光が射さないことに似ています。
地上での数十年のあいだ、みずからが光の子であるということ、仏の子であり神の子であるという真実を忘れて生きたために、あの世に還ってから、天上界の光がまぶしくて、自分の住む場所を見つけることができずにいるのです。
人間が光の子としての本来の使命に目覚め、見事に今世の試練に打ち勝ち、光の仲間たちから「よくぞ使命を果たした」と言われるような生き方をすることです。そうした生き方が求められているのです。

(経典『奇跡の法』より)

地獄の責め苛みは、ある意味において、自責の念でもあります。「多くの人々を狂わせ、惑わせてしまった」という、自分を責める思いが、それだけの反作用を引き寄せている地獄も存在します。
この世というのは、天国と地獄が一緒になった玉石混交の世界です。ぜひ、幸福の科学で天国に還るために求められている生き方を一緒に学んでみませんか。

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